ヤーレンズ・出井隼之介さんが物事の良し悪しを綴る連載『可否伝』。出井さんセレクトの「今月のコーヒー」情報とともに、心が揺れた“良し悪し”を語ります。
3月の可否
この『可否伝』の“可否”の部分が“珈琲”の昔の表記の仕方であるということがどれだけ認知されているのかわからないが、先日このタイトルにぴったりのお店があることを思い出し『可否道 平河町店』を数年ぶりに訪ねた。
駅で言えば永田町。国立劇場の向かいにある喫茶店は、カウンターだけのこぢんまりとした佇まい。中でせっせと作業をする物腰の柔らかい白髪のご主人は、ザ・喫茶店のマスターといった雰囲気だ。
うっすらとジャズが流れる店内。カウンターの中には、明らかに年季の入ったコーヒーグラインダー(カリタハイカットミル)の前に数種類の真っ黒い深煎り(メニューには“深入り”と書いてある)豆が並んでいる。
そしてなによりも目を引くのが、棚にずらりと並んだ目にも鮮やかな有田焼のカップの数々。
カップとソーサーが100セットはあるだろうか。一つ一つきちんと並べられおり、見るだけで気持ちが高揚する。
コーヒーはブレンドも数種類から選べる。迷ったときは店の名前を冠したメニューを頼むのが定石。“可否道ブレンド”を頼む。すると
「お好みのカップにお入れしますのでお選び下さい」とご主人。
僕はこの世に存在する文章で、「お好みのカップにお入れしますので、お選び下さい」が一番好きだ。
カップを指名しコーヒーを待っている間、ふと目の前に置いてある大ぶりの銅製灰皿に目がいく。
このお店は「このご時世なのに」全席喫煙可である。昨夏まで喫煙者だった僕は、ずっと前にこのお店に来た時のことを思い出した。
その日は確か、今日の席より少し中央左よりの椅子に座った。その日お店に立っていたのは奥様で、僕はおそるおそる「タバコ吸えますか……?」と聞いた。
奥様はふっと微笑むと「ジャズ流して、深いコーヒー出して、タバコ吸うな なんて酷なこと言わないよ」と言って灰皿を出してくれた。
痺れた。
あれから約何年経ったろう。僕はタバコを辞めた。辞めたことを後悔などあろうはずがありませんというイチロー引退会見の精神で今まで過ごしてきたが、初めて後悔した。
あの痺れる一言と共に、何千本もの吸い殻を集めてきたであろうあの灰皿に灰を落とすことがもうできないからだ。
そんな少しのニコチンリグレットを感じていたら、白に鮮やかな花の模様のついた有田焼カップにコーヒーが注がれた。あのときみたいに“深入り”のコーヒーとタバコのペアリングは愉しめないが、それでもコーヒーは美味しかった。
嫌煙ブームは大いに結構だが、こういう「このご時世に」喫煙可のお店が全く無くなることは、良いことだとは思えない。
さて、先程から使っている「このご時世に」という言葉。最近とりわけよく耳にするし、なにかにつけてコンプライアンス、規制が厳しくなった昨今では特に使う機会も多い言葉なのだが、実は取り扱い注意な言葉だと思っている。
なにに注意が必要か。本当に「このご時世だから」ダメなのかについてである。
例えが極端になるが、目の前で女性へのセクハラがあった場合「この(コンプライアンスの厳しい)ご時世になにやってんだよ」が果たしてコメントとして合っているのか?ということである。セクハラは横行していただけで、昔からダメだからだ。
このように(……このご時世でなくとも、ダメだったのではないだろうか。)と思案を巡らせる必要がある。
そのことのいい加減さ、ダメさは昔から変わらないが、今になってそれが広く認知されたことに関しては「このご時世に」は当てはまらないのだ。
本当に「このご時世に」を使うべきときは、先ほどの「この(喫煙者の減った)ご時世に」全席喫煙可の店珍しいであるとか、或いは「この(本が売れない)ご時世に」も関わらず10万部のベストセラー!とか、「この(車や飛行機がある)ご時世に」飛脚に郵便を頼んだんですけど……などである。
とは言え、こうやって文字にするときとは違い、トーク中などその場その場での瞬時の対応が必要なときには、出ても仕方ないとは思う。
同じく取り扱い注意なものとして「思想強い」「サイコパス」「硫化水素」などがあるのだが、それはまた別の機会に。
~3月の可否~
可→喫煙可のお店
否→ 「このご時世に」の乱用
今月のコーヒー【可否道 平河町店】
『可否道 平河町店』
古き良き喫茶店。
PROFILE
ヤーレンズ・出井隼之介
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文:ヤーレンズ・出井隼之介
構成:堀越 愛
写真&サムネイル:ヘンミモリ