【『芸人年表』vol.4 ~中村ひでゆき~】「結局、自分で答えを出すしかない」……漫才では勝てない、でも高齢者漫談で「人生をお笑いに捧げよう」と決めた

芸人の歴史を深掘りし、年表とグラフをもとに話を聞くインタビュー連載『芸人年表』。連載第4回に登場するのは、吉本興業所属の中村ひでゆきだ。

2004年に「ゆったり感」を結成し、長年舞台に立ち続けてきた中村。2023年にコンビを解散後は、高齢者の家にお弁当を配達するアルバイト経験をもとにつくった「高齢者漫談」に活路を見い出した。

紆余曲折のあった芸人人生でこれまでなにを思い、どんな葛藤を抱えながら歩んできたのか。自身の手で芸人人生をグラフにしてもらい、話を聞いた。

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芸歴グラフ

最初はエリートだった

———もともとお笑いは好きだったんでしょうか。

極楽とんぼさんが好きで、テレビやラジオに触れるなかで「お笑いをやりたいな」と思い、極楽とんぼさんがいる吉本興業に入りました。

———学校ではどんなタイプでしたか?

目立たないおとなしい子に「これやってくれ」と指示して、やってもらって笑いを取るタイプでしたね。

———まわりを使って笑いを取るタイプだったんですね。NSC(吉本興業の養成所)に入ってから、お笑いとはどう向き合っていたのでしょうか。

養成所に入って「急にネタをやる」となって……そもそも、“ネタ”というもの自体知らなかったんですよ。だから「どういうことだろう」と、いろんなネタをビデオで観ました。

———当時、漫才とコントどちらをやっていたのでしょうか?

養成所ではコントをやっていましたね。

———NSC卒業後、グラフはしばらく上がっていますね。

養成所時代はめちゃくちゃ楽しかったです。みんなは「選抜に入るか入らないか」で一喜一憂していたけど、僕は選抜に入れなくても全然なんとも思わない。仲良いメンバーと一緒に遊んでいるのが楽しかったですね。

———肝心のネタは、いかがでしょう。

1年目のとき、ルミネ公演を見学する機会がありB&Bさんの漫才を見たんです。そのとき、島田洋七師匠が島田洋八師匠を叩いていたんですね。で、「ボケが叩いてんのって面白いな」と思って。ボケて、相方にツッコんでもらうけどツッコミが間違ってる、だからボケがが叩き返す……そういう漫才にしたらおもしれえなと気づきました。実行してみたら、どんどん上がってルミネ公演に出られるようになったんですよね。だから、同期で最初に単独ライブをしたのが僕らなんです。当時はエリート扱いされていました。

———M-1グランプリでも1年目から2回戦へ進出。2年目で3回戦へ進出しています。

正直、M-1の結果がどうであろうと、2005年くらいまでは悔しくもないしうれしくもなかったです。賞レースで結果が出るより、遊んでいるほうが楽しかったですね。劇場ではウケるし、後輩も慕ってくれるし、先輩も面白いと言ってくれる。それに満足してました。ただ、2005年にブラックマヨネーズさん、2006年にチュートリアルさんが優勝したのを観て「ちゃんとやろう」と思ったんですよね。

———それをきっかけに、どんどんネタをつくっていくことになるんですね。

僕は「今年はこんな作品をつくってきました」と見せるのがM-1だと思っています。“パッケージ”があるシステムの漫才が好きなんで、そういうつくり方をしてました。同期と考えて生まれた「50音漫才」がウケて、2007~2008年ごろにドカンといった記憶があります。

M-1準決勝に進出し「勝ちたい」と思った

———M-1で結果を出したいと思いはじめたのは、いつごろですか?

2008年に準決勝まで行って、ここで「勝ちたい」と思うようになりました。2009年にフジテレビで『キャンパスナイトフジ』がはじまり、オードリーやナイツ、ハライチ、はんにゃと一緒にレギュラーになったんです。ナイツとオードリーさんは2008年に決勝に行っていて、ハライチは僕らと同じく準決勝が最高成績だったんですよ。だからこの2組で一緒に決勝行きたいと思っていました。

———じゃあ2008年から2010年までは、M-1と向き合ったんですね。

もう、「M-1だけ」という気持ち。特に2010年は「確実に決勝行った」という自信しかなくて。落ちたときには悔しさもあるんですけど、清々しかったですね。

———M-1は2010年でいったん終了し、2015年に再開しました。2010年以降グラフは凪ですが、どんな気持ちだったんでしょう。

2011年に『THE MANZAI』がはじまって、これは「ニンで笑わす大会」というイメージでした。僕はシステムが好きなので「どうやってニンを出すんだろう」と悩んで型を崩していましたね。いろんな先輩に「こういうふうにしたほうが良い」と言われ、意見を聞きすぎて、自分が「面白い」と思っていることができなくなっていた時期です。

———M-1が2015年に復活したときはどうでしたか?

この時期、社員さんに「相方の江崎が台本に追いついてない」って言われたんですよ。それに「なるほど」と思いました。自分のやりたい漫才は江崎とはできない、じゃあ「江崎を活かすような漫才にしよう」と決めた期間でした。だから相方に求めることも多くなったし、うまくいかないとき相方のせいにしちゃうこともありました。自分のやりたいこともできていないから……難しい時期でしたね。

———プライベートでは2015年に結婚されています。

プライベートはここから常に100点。お笑いは0点です。

芸人人生は悔しいことばかり

———コンビ間の関係性はどうだったのでしょうか。

M-1の準決勝に行けていたとき(2008~2010年)は良いですけど、基本的には仲悪かったですよ。『キャンパスナイトフジ』に出てテレビで通用しないのがわかって、それをお互いのせいにしていました。「お前のせいでピンマイク外されてる」……とかね。でも、当時はオードリーさんの優しさにすごい助けられ、ナイツさんの“関係ない精神”に鍛えられましたし、ハライチ澤部のポジショニングは「すごい」と思いました。で、「自分は才能ないんだ」と崩れ落ちました。当時はハライチ岩井も僕と一緒の状況で、生放送終わりに「今回も俺らギャラ泥棒だな」とか話していたんですよ。だから、岩井がテレビで活躍しているとうれしいですね。活躍がうれしい、唯一の芸人ですよ。

———コンビとして難しい時期に、解散は考えなかったんですか。

正直、ずっと考えていましたよ。当時はもう嫁と付き合ってて、「毎年解散考えてるよね」って言われてました(笑)。

———2019年は、M-1ラストイヤーでしたね。

未来がなかったですね。コンビでやっていてもズルズル行ってしまう気がして……。最初にルミネを見学したとき、テレビも出ないで同じネタばっかりやってる先輩がいたんですよ。それを見て「お前らより俺たちのほうがおもしれえから代われ」って常に思っていたんです。なのに、「自分がそうなっている」と思ったんですよね。恥ずかしいし、終わりにしたいなと……新ネタはつくるけど良いものはできないし、もう「ネタじゃないところで頑張ろう」と決めちゃっていた時期ですね。

———そして、ついに解散したのが2023年です。

こんな言い方したら申し訳ないですけど……本当にスッキリしましたね。10年間悩んでいたし、だからこそすぐスタートダッシュを切れた気がしました。簡単に言うと、僕が「解散しよう」と言ったんです。けど「解散したくない」と言われて。だから解散しないで1年間ゆったり感のことを考えて、『THE SECOND』にぶつけようとなったんです。でも、結局あっち(元相方)から解散したいと言われて。そのときは「良かった」と思いました。1年間引き延ばしたら、結果が出ても出なくてもすごい憎んじゃうだろうなと思ったので。

———解散後、そのまま芸人をやめる選択肢はありましたか?

ありましたよ。就職しようかと思ったけど、自分のなかで進まなかったですね。やっぱり、悔しさかな。芸人人生悔しいだけなので……それだけで今もやっている感じです。

新しいチャレンジが楽しい

———グラフを見ると、コロナ禍からコンビ解散あたりで上がりはじめていますよね。

コンビのことで苦しんで「どうやったら売れるんだろう」とずっと悩んできたんです。で、コロナ禍で仕事がパタッとなくなり、初めて自分のことを考えました。で、今までやってきたことをノートに書いたんです。漫才、コント、トークライブ、前説、エピソードトーク……そのなかで自分の得意なことと好きなことだけを残したんですよ。それで気付いたのが、特に得意なことは前説。永遠に前説できたんですよね。

———前説が得意ってすごいですね。

エピソードもしゃべらずお客さんをいじっていれば、1時間くらいは楽勝だったんです。「これが得意だったんかい」と恥ずかしくなりましたけどね(笑)。そこからいろいろと考えて、突き詰めると「ひとりで舞台に出てしゃべること」が得意だと気付きました。高齢者の方にお弁当を届けるバイトをして、毎回エピソードをノートに書いていたので、これを話せば良いんだと。やるべきことを見つけましたね。

———バイトをはじめるまで、高齢者の方と関わりはあったんですか?

全くないです。最初はお金が良いと思ってはじめたバイトでした。おじいちゃん・おばあちゃんから嫌なことを言われて謝っているのが気持ち悪くて、「うるせえな」とか「俺に言ったってわかんないよ」とか言ってたらウケるようになったんです。コロナ禍が明けたらトークライブでしゃべろうと思って、書き溜めてました。

———高齢者漫談をはじめたのが40歳。新しいことをスタートするにあたり、年齢は意識しませんでしたか?

いや、むしろホッとしましたね。まだなにかを頑張れるんだなって。やろうとしてることの正解は誰も知らないし、自分で動くしかないし、自分が止まらないようにするだけ。それやってたら、仲間が必然的にできていくんですよ。

———最初は、オンラインで高齢者の方に漫談をしたそうですね。

エピソードをしゃべりたいとなったときに相談したのが、NPO法人プラチナ美容塾というボランティア団体。コロナ禍なので施設には行けないので、オンラインで10分間もらって漫談をやりました。そこでウケる・ウケないを試しながら、半年くらい修行させてもらいましたね。

———最初から手応えはありましたか。

ありましたね。きれいなこと言っててもウケないんだと初めてわかりました。馬鹿にするというか、汚い言葉を使ったほうがウケるというか……。それからボランティア団体の皆さんに「もっと時間をあげる」と言われ、30分くらいやらせてもらえるようになりました。

———地道な活動が実を結んだわけですね。

コロナが明けて初めて施設に行けたとき、おばあちゃんが「本当に来てくれた」って泣いてくれたんです。こんなに売れてない俺でも、待ってて喜んでくれる人がいるんだと思って。「人生をお笑いに捧げよう」とあらためて思いましたね。

———それで、精神的にも前を向けたんですね。

解散を決めた時期に、もう「漫才では勝てない」って白旗を上げたんですよ。でもどうせお笑いは辞めないんだから、売れている同期と肩を並べるためにはどうしたら良いんだろうと逆算してたどり着いたのが高齢者漫談でした。新しいことにチャレンジする感じ、1年目に戻ったような気がしてすごい楽しいですね。

高齢者漫談は「5年計画」だった

———コンビからピンになったというのも大きそうですよね。

コンビ時代、いろんな人にがみがみ言われるのを、ずっと「うるせえ」と思っていたんですよ。でも俺の人生だし、がみがみ言ってくる人に限ってなにもしてくれねぇじゃん、手差し伸べねぇじゃんと。今は誰もやってないことをやってるし、なんも言わせないですよね。

———なるほど。

解散したときに助けてくれた人もいっぱいいるんですよ。同期の囲碁将棋、しずるの池田一真、かまいたち、ライス……先輩ではグランジさん、後輩だったら大自然、オズワルドとかね。社員さんも含めて、助けてくれる人たちと出会えたのがこの時期で、それが財産ですね。

———まわりに助けられていたんですね。

劇場に出ると、芸人たちが袖に来てめちゃくちゃ笑ってくれるんです。みんなが優しい目で応援してくれているのが伝わって、仲間って良いなと思いましたね。

———今でも、同期の囲碁将棋さんのライブに出演されたりしますよね。

本当にありがたいですよ。こんな僕でも使ってくれるのかと。“楽しい”の延長でしかないし、うれしいですね。ピンになってから、楽屋で誰もいないと寂しい。でもみんなといるのはすごく楽しいので、劇場って良いところだなと思います。

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———現状の人生としては満足していますか。

さっきも言いましたけど、プライベートは100点ですよ。仕事は自分次第なので、やりたいようにやるだけですね。

———今後も高齢者漫談をとにかく続けていくと。

今の自分にとって、主軸の仕事です。ここでスベったらもう後がないという気持ちでやっています。M-1準決勝に行ったときと一緒ですね。あとは、楽しくやれれば良い。ひとりでも多く、おじいちゃん・おばあちゃんを笑わせて元気にしたい。これで全国まわれたら「売れたかな」と思いますね。

———全国をまわるのが最大の目標ですか?

現段階では、お金をいただくとしても500円しか取れないと思う。綾小路きみまろさんのチケット代は5000円くらいなんで、まだまだ足元にも及ばない。同じ土俵じゃ勝てないと思ったし、僕は弁当を届け続けて、おじいちゃん・おばあちゃんとの会話から溜めたエピソードで戦おうと思っています。

———ベースは変わらず、お弁当配達なんですね。

お弁当を届けて会話してエピソードをつくれますから。あと、最近は福祉や身元保証を勉強するためにも動いているんです。老人ホームに入れないおじいちゃん・おばあちゃんもいるんですよ。そういう人たちがどうやったら老人ホームに入れるのかとか、聞いたりしています。だから、最近はお弁当配達とは違うところからも高齢者漫談につながる動きをしていますね。

———違う方向からアプローチしたのはなぜでしょうか。

もともと、高齢者漫談は「5年計画」だと思っていて。その間に飛び込み営業をしたりネタづくりをしたり、いろんな人と知り合うって決めたんです。2026年ごろまではお笑いの仕事はなくても良いから、お弁当を届けるバイトで家族にお金を渡せれば良いと思っていた。

でも、思った以上に早く上り調子になって。予定よりもうまくいっているんですけど、これって伸びしろがなくなったのと同じ。だから福祉のことをもっと知って、違うアプローチをしようと思ったんです。

———意義深いですし、すごい行動力ですよね。

コンビだと相方の人生も考えないといけないけど、自分ひとりならなんぼでもいける。そう思うと、行動できるんです。自分が動かなきゃ終わるし。トライアンドエラーを繰り返すだけですね。

———結果的に、ピン芸人が向いていたかもしれないですね。

かもしれないです。劇場に出なくなるとお客さんもつかないし、おじいちゃん・おばあちゃんはわざわざ劇場には来ない。自分のテリトリーから出ないし呼ぶのは難しいから、こっちから全国行こうと思っています。

人の意見を聞くより、とことん悩め

———自分で行動して結果を出そうとしている中村さんにお伺いしたいのですが、現状に悩んでいる人はどうしたら良いと思いますか?

結局、自分で答えを出すしかないですよ。人はそこまであなたに興味ないから、意見を聞いてるだけじゃ意味がない。言われた通りにやるだけだったら、失敗したら人のせいにしちゃうでしょ?もし後悔するとしても、人の意見を聞くんじゃなく自分でとことん悩み続けたほうがいいと思います。だから「人に頼るな」って感じですかね。

———結局、自分で考えるべきだと。

口だけのやつが良い顔していろいろ言ってくるけど、そういうのは気をつけたほうがいいですよ。僕はコンビのときに意見を聞きすぎた。自分がやりたくてお笑いをやっているのに、ダメ出しされて直すって変な話ですよね。自分でやってみてダメだと気付くのと、人に言われてやらずに終わるのは全然違いますから。

———結果を出すために、具体的にどうしたら良いでしょうか。

今やっていることを辞めるのもありだと思いますよ。僕は漫才を辞めたし、コンビも辞めた。無理やり続ける必要はないし、環境を変えて自分を見つめ直したら、やりたいことも必然的に出てくると思う。一方で、僕は自分が辞めたからこそ、なにかを続けている人をすごくリスペクトしています。今は、全漫才師をリスペクトできるんですよ。

———いろいろと模索しながら家族を養っている中村さんは、すごいと思います。

バイトだったとしてもお金を生めれば良いし、稼ぎたいなら、結局は寝なきゃ良いですからね。子どもが3人いるんですけど、この子たちを20歳まで育てるのが僕の使命。だからバイトも全然苦じゃない。ひもじい思いをさせるほうが嫌ですから、そうなるくらいなら寝ないで働いたほうが良いですよ。それより、今は奥さんがほぼワンオペで子育てをしてくれているし……売れていない芸人と結婚するって、すごい根性じゃないですか。奥さんに対しては、もう尊敬しかないです。

———素晴らしい考え方ですね。

そう思うのは、2025年の僕に会えたからですよ(笑)。2020年より前の僕に会ってたら、ボロクソ言うと思う(笑)。この数年で、人が変わりましたね。

中村ひでゆき 年表

PROFILE

中村ひでゆき(吉本興業)

★公式プロフィール:https://profile.yoshimoto.co.jp/talent/detail?id=10218
★X:@yutta0nakamura
★YouTube:中村ひでゆきの高齢者漫談チャンネル

文:まっつ

編集, 撮影:堀越愛