『御何様』は、芸人・南翔太による写真×文章の連載。

お題はなし。『御何様』は、南が自由に綴る連載。何度も読んで噛みしめて、描かれた世界をとことんしがんでください。
カウンターのみの狭いバーにて
僕は球であるからこの世界には底が生まれる。
三角地帯の飲み屋街は平日も活気に溢れ、建ち並ぶ木製のドアは銘々の酒気を孕んで膨らみ、路地を狭め、内部に溜まった重みは地盤を沈下させている。
二人の男が遠くで提灯の赤に染まっていて、その足下には彼らの同胞と思しき残骸がある。片手を上げて何かを訴えているが、声までは届かない。僕はそこで立ち止まって、踵を返す。提灯の赤とネオンの青が背景に変わる前に混ざり合って紫の線が立ちあがる。振り返ると、そこにさっきまでの紫の背景はなく、独立して滲んだ色とパースの狂った景色が存在している。再びその背景に飛び込んでいく。
さっきまでいた三人はおらず、脚が一本になったからだろう、店外に吐き出された逆さまの木の机だけがある。そこまで歩くと、側道に繋がる人ひとり分の狭い路地があり、外から中が見えない作りの店が左右に軒を連ねている。そこに入ったところで、前方から人がくるのが見えた。だから、最初に掴んだドアノブを捻って、冷たい外気のようにいっきに侵入した。
そこはカウンターのみの狭いバーだった。先客はひとりだが、それでも少し腰を浮かせて詰めてもらわなければならないほどだ。
「すません」と会釈する。顔を見られないようにしていたら、やっぱり顔を見ることができなかったが、彼も何か返事をしてくれたようで、声色から年上で優しい人であるはずだった。
お洒落なジャズが流れている。いや、ジャズが流れている。お洒落であるかどうかの判別がつくほど明るくないのに、ジャズのことを考えるのは得策ではない。なぜかジャズにあう顔を作り、額縁のように左手を添えてしまっている。
そう、注文をしなければならない。ハイボールが好きだからハイボールを頼む訳だが、もちろんウイスキーのソーダ割りと言わなければいけない。バーでハイボールと頼む馬鹿は短大に行け。好む銘柄はあるが、それを頼むのはやり過ぎかもしれない。僕は若く見られることが多い。脳内でシミュレーションをする。ウイスキーのソーダ割りをお願いします、で、銘柄どうしましょう?で、あまり詳しくないんですけどなにかお勧めはありますか?で、なにか言われるから、じゃあそれをお願いします、で、感情。店員の目を盗んで微笑む練習をする。慣れた痛みと味で上唇が裂けたことに気づく。大丈夫。時間的猶予はないが、すぐではなく、空間を読んで、そっと差し出すように発する。
「ウイスキーのソーダ割りをお願いします」
「あ、ハイボールですね」
ハイボールがハイボールの店だった。
「ウイスキーあったかな、僕手伝いだからわかんなくて、変な店だからハイボール頼む人いなくて、すいませんね」
上気する顔、電球を照らし返すようだ。
「じゃあ大丈夫どす」
マジでキレた京都人か。
「これお願いします」
咄嗟に目の前にあった酒瓶を指さす。赤いペンでPOPに『ハブ酒、元気ビンビン』と書かれている。
「いえ、ありました!角しかないんですけど大丈夫ですか?」
もちろんですと答え、店員が作業に移る。
反省しながら、現実では手持ち無沙汰になり、鞄を漁る。文庫本を取り出して読み始める。読んでいるフリができればそれでよかったが、言葉は侵入を始め、それを許すかどうかは僕に決められることではない。
ハイボールはほとんど水になっている。視界の端が動いたのは、コースターから漏れ出たグラスの結露により灰皿がエアホッケーのパックのようにひとりでに動いたからだった。現実に再接続するための狼煙として煙草に火をつけようとしたところで、先客の存在を思い出す。煙草が苦手かもしれない。声をかけるために、ちらと見やる。
そこには彼がいた。
咄嗟に声が漏れる。彼は、言葉を発さずにこちらを向く。次の言葉を待っている。「ん」の口を作り、待ってくれている。
「あの、ファンで、サインをいただいてもよろしいでしょうか」
「大丈夫ですよ」
彼の本をずっと鞄に入れている。
「すません、これにお願いします」
彼の本を渡そうとして、鞄の底に溜まった埃がついていることに気づく。パーカーのフードを引っ張って拭きとる。
「え、持っててくださったんですね、嬉しいです」
「好きな本でずっと持ってて、読めそうな人にあげるようにしてて、これもう5冊目なんですけど、これは半年前から持たせてもらってます、これはこの本自体のことで、すません、このもの自体は3週間前からでした、これの前は村上春樹さんの海辺のカフカの上巻でした、だから上巻だけ何回も読んでて下巻は忘れてたりすることもあると思います、すいませんブックオフで」
名刺交換のような形態で彼に本が渡る。古本で買っても作家に印税は入らない。それは失礼なことであるはずだった。そんな要領を得ない話を、理解の深度に合わせて相槌の種類を替えながら、微笑みと共に聴いてくれた。
「むしろ嬉しいです、僕も同じことよくやるんで嬉しいです」
サインを書きながら、名前を尋ねてくれる。ありがとうございます。返ってきた本を抱えて深くお辞儀をする。だが、高揚感と相反する感情が破裂寸前まで膨らんでいた。破裂を待つわけにはいかない。
「すみません、お会計をお願いします」
マスターがカウンターに掛けた手を解いて、空間の中の適した場所を探る。彼は心底驚いた様子で笑みを浮かべる。
「えぇ、明日早いんですか?」
「明日は夕方に用事があります、いや用事て、そんな大層なことないです」
「じゃあもう一杯飲みませんか?」
「いや、それは無理です」
「いやそんな、気を遣わないでください、僕は本当にせっかくこんな偶然だからお話ししたいって思ってるだけですよ」
いや、気を遣っているのはあなたです。
「無理です、すいません、全部間違えました」全部。「僕ここに来るつもりじゃなかったんです、前から人来たから邪魔なると思って、だから入っただけで、だからドア、勢いよく入って態度悪かったんです、間違えました。席を詰めさせてしまったのも間違えてる、ほんでバーにひとりで入ることなんてないから、一番普通のハイボール頼んだらここ変な店で間違えてましたし、本読むのも間違えてました、咄嗟に話しかけてしまったのもプライベート邪魔して、間違えてます」
発言の意図や心の機微の何もかもが好意的に捉えられているのはわかる。彼は思索に耽っている。
「だからこれ以上は無理です」
彼は試されているような心持ちでいるかもしれないけれど、それは不快ではないだろうとも思う。
「さっきまでマスターと前言撤回できない世の中ってどうなんでしょうねって話してたんです。間違ったことをしてしまったときに、それを改めることのなにがいけないんでしょうねって。僕がそうなんでわかるんですけど、引くに引けなくなるときってあるんです。でもここは前言撤回オッケーのルールでやってるんで、今日だけは前言撤回してみるっていうのはどうですか?」
これ以上ない形で差し伸べられた救いの手も、今はすり抜ける。
「いえ、今日は前言撤回できません」
最後まで間違えることだけがこの場での価値だった。
「またここで会えたら一緒に飲みましょう」
その言葉に礼を述べて、店をあとにした。
ヒールに徹し切れたようで、どこか清々しかった。ほんとうはもっと話したかった。だが、それは僕のエゴで、彼にとってはあれがベストだった。
いつもならすんなり飲み込めるはずだったそれは喉の奥で静かに主張を始める。その声で口の中がうるさいのだ。
美化するな。
ごちゃごちゃ考えて偉そうに大局観のある人間ぶってバランスをとろうとするお前はなんだ。自分の至らなさや拙さに耐えられないからコックの立場をとろうとしているが、お前は単なるチキンだろう。話したかったのは、なにか打算があったからなのか。違うはずなのだけれど、それはわからない。
自分の声と混じる。どれも自分の声なのだけれど。
仲良くなりたいという感情は純粋な思いか。媚びるのは嫌か、嫌ならそのために犠牲になるのは誰だ。誰かのための自己犠牲とか自己陶酔は、お前にとって、俺にとってありがた迷惑だ。お前は偉そうな人間だけれど、偉い人間ではない。でも、俺はおもしろい人間だから、彼は絶対に俺と仲良くなったほうがいいのだ。球。この路地は大腸で、糞がお前。鹿の糞。路地が痙攣と収縮を始める。排泄を求める。押し出す。この世界の出口を知っている。
「帰ったのも間違えてました」
それは入口に似ている。

最近は日が昇るのが早いぶん、目に光が優しい。
僕の最寄り駅の松屋のタッチパネルを軽快に奏でている。とろろとカレーソースを追加してから、南くんは野菜や、とサラダのパネルに触れようとする。
マジでいらん、と思ったころには言っている。
うしろ姿テクノバッハやん、と思う。
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南 翔太
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文・写真:南 翔太
編集:堀越 愛
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